俺は犬を飼うことが嫌いだった、自由に走り回らせることができるほどの敷地とフェンスがあるわけじゃあなく、首輪引き綱に頼って散歩させなきゃあならない、てつは大人になってからきて子供時代から人間に痛めつけられてきたから、食事やおやつをあげようとすると俺が何も言わないでいてもお座りしてお手を何度もしはじめてしまう、それを可愛いというやつらに辟易していたしおやつを持って来てお座りやお手をさせようとした間抜けもいた、自分が餌を眼の前に振られてなにかやってみろって言われたらどうなんだろうって思いながら唾を吐くのを我慢していた・・・
水もおやつも食事も散歩も無条件であたりまえで、なるべく俺の思うとおりにならないようにまり、てつ、うめに接してきた、俺は他人の思うように生きないことを上等として生きてきたから・・・
うめが幸せか幸せじゃあなかったって言うのは人が思うことじゃあないし決める事じゃあない、口にしない事やらない事がよいことがこの世にはたくさんある・・・
今年雪山を歩いた後の流れで初めて話しをした男がいた、失業中の妻子持ちだという40代、彼は人生で困った事があると宗教関係者に相談に行くらしい、それも何度も何度も繰り返すらしい、そして相手は何度も何度も親切に相談に乗って就職先まで心配して紹介してくれると喜んでいる・・・
初対面ながら俺の家だから俺の思ってることを話した、「人の言う事は聞くな!生きる邪魔になるだけだから・・・」って、瞬間大笑いした相手に笑顔で返してその後の言葉は飲み込んだ・・・
困った時に人の言う事を聞いて生きたら人の人生、困った時は自分だけで悩んで苦しんで自分で考えて答えを出して行動して初めて自分の人生を生きるってことになるんじゃあなかろうか・・・
男がいつも相談事をして、いつも親切に導いてくれてる相手って善人じゃあなくて悪魔なんじゃないのかって思うのは俺だけだろう・・・(笑)
困ってる相手にいつもいつも親切にしてたら相手は自分で考えないし行動しなくなる、そしていつもいつも困った時は人を頼ることになる、そのうち困らなくても頼り癖がつく、それでも毎週毎回いくばくかの寄付金を持って来る信者にしとけばいいてことかいな・・・
多くの人間が育ち間違いをする、何かやろうとした時、人に心配をされると待ってましたとやらない人間、人の心配をすると自分が良い人間だと勘違いする人間・・・
少し前20メートルぐらいの高さの木に登って上から少しずつ切っていた、高いところで下を見ると弥生が背中を向けて畑仕事をしてた、心配して言葉を口に出すわけじゃあなく、見上げて心配するんじゃあなく、それでも背中で心配してるのがわかる、正しい心配のしかたってーのがこれなんだろう、間抜けは自分の心配を口に出す、それは自分の心配を口に出して相手の行動を止めてしまう、止めてしまえば自分は心配しなくていいって自分の都合を主張してるだけ、我侭だってことだ・・・
葬式に出かけ、妹の死に顔を家族が見せられないって断っているのに「私の気持ちはどうなるの!」って、怒って無理やり見てきた姉、そしてその家族に対して怒っていた年寄りの話を聞いたことがある、俺は宗教上のこととか姉のことが嫌いだとか、相手の気持ちがあって、優先すべきは最後に妹の顔を見たい気持ちより相手の気持ちなんだろうって・・・
親切だって思ってる人間を罵倒すると良かれと思ってやったことなのにって怒り狂う、自分の言ってることやってることが相手にどんな影響があるのか良いことなのか悪いことなのか考えることもできない鰯の群れ・・・
うめが居なくなって、たくさんうめとてつとまりの話しを面白おかしく弥生としてる、弥生の泣き顔を見たくないから余計な話をしない余計なことはしない・・・